愛が聞こえる 5
2015 / 03 / 07 ( Sat ) 「おはようございます。・・・そちらの怪我は?」
「なんでもねーよ」 「失礼致しました。利き手ですので万が一不都合がある場合は仰ってください」 無表情でリムジンに乗り込む司に一礼すると、西田も後に続いた。 「何か新しい情報は?」 「いえ、今のところは何も」 「・・・ほんとに調べてんだろうな?」 座ってすぐに窓の外に視線を送っていた司が反対側に座る西田をジロリと睨み付ける。 早速書類を取り出していた西田の動きが思わず止まった。 「・・・それはどういう意味でしょうか」 「どういうもこういうもねーよ。誰かの差し金で実は情報を操作してるなんてことはねぇんだろうな。もともとお前はババァの犬だったんだしな」 じっと探るような鋭い視線をぶつけられても西田は顔色一つ変えない。 そのまま視線がぶつかり合うこと数秒、やがて眼鏡のフレームをクイッと上げると西田はふぅっと一息吐いた。司はその動作も含めて西田の動向をじっと見ている。 「いくら疑ってもらっても一向に構いません。私は嘘などついておりませんし、上がってきた結果をありのままご報告するのみです」 「・・・・・・」 真っ直ぐに臆することなく発した言葉に嘘は感じられない。 司はしばらくそのまま睨み付けると、やがてスッと視線を窓の外に戻した。 「花沢様はなんと?」 「・・・あいつは一切口を割らなかった。つまりはそういうことだろ」 「・・・・・・」 『 一切協力はしない 』 そうはっきり宣言された忌々しい記憶が蘇る。 一見ぼんやりしてそうに見えて昔から嫌なことは嫌とはっきり言う男ではあったが、なんだかんだ司の我が儘につきあってきた男でもあった。 あんなにはっきりと 「 ノー 」 を突きつけられた記憶はほとんどない。 あるとすればそれはいつだって・・・・・・ そこまで考えてギリッと右手に力を込めるとズキッと痛みが走った。 昨日は何も感じなかった傷の痛みを今日は感じる。 それは幾分頭が冷やされた証拠なのだろうか。 昨夜タマに言われた言葉が頭の中に響き渡る。 『 今すべきことを考えてください 』 『 もしかしたら結婚している可能性だって・・・ 』 考えたくもない現実をギュッと目を閉じて思考の中から閉め出した。 「俺にとってこの7年は一体何だったんだ・・・?」 「それは・・・」 視線を落としていた書類から再び視線を上げると、司の顔は苦痛に歪んでいた。 記憶が戻ってから見る彼の顔はいつも苦しそうだ。 ・・・いや、戻る前だってほとんど生ける屍のように生気を失っていた。 得体の知れないイライラを常に抱え手当たり次第に当たり散らした。 暴力的な振る舞いはつくしに出会う前よりも酷かったかもしれない。 邸にある物という物は壊し尽くした。 この7年の間にどれだけの人間が邸から去っていっただろうか。 連日不眠から酒に溺れる日々。 だが酒に対する耐性が強かった司が酔うことは難しく、その量は日に日に増えていった。 どんなに飲んでも酔えない苛立ちから更に暴力性が増す。 全てが悪循環だった。 いつからか睡眠薬を常用するようになるが、効き目が見られたのは最初の数回だけ。 気がつけば酒で薬を服用するようになり、司の体がボロボロになっていった。 真っ先に食欲が落ちた。 元から食に対する欲が極めて低い男ではあったが、医者が心配するほどではなかった。 何を食べても味がしないと、どんな高級なフルコースだろうとも司の食欲を引き出すことはできなかった。 長身にほどよくついた筋肉が見せていた抜群のスタイルはすっかり鳴りを潜め、誰の目から見ても不健康な姿へと変わってしまった。 それでも司が酒をやめることはなかった。 どれだけドクターストップをかけても、自分の体を顧みることはしなかった。 このままでは待つのは 『 死 』 のみ _____ 誰一人として口には出さないが、彼を見た全ての人間がそう思っていたことは違いない。 むしろ彼はそれを待ち望んでいるようにすら見えた。 そんな状況でも楓は何も言わない。 ただ息子に然るべき課題を課すだけ。 昔の司なら逐一反発していただろうが、記憶を失ってからの司はまるで操り人形のようだった。 精気のない顔で大学に通いながら学業と仕事を両立し、卒業してからは本格的に後継者になるべくビジネスの世界へとその身を投じられた。 目の前にいるのは道明寺司であって道明寺司ではない。 ビジネスで接したことがある人間ならば誰もがそう思ったことだろう。 だが魂はなくとも彼は与えられた仕事をこなしていた。 それはまるで機械仕掛けの人形が動いているかと思うほどに。 今思えばあの当時の記憶が彼自身にどれだけ残っているのだろうか。 楓にとってはむしろそんな息子である方が都合が良かったのかもしれない。 その実がどうであろうと、やるべきことさえ果たしてもらえれば何の問題もない。 はじめこそあの一件を忌々しいと思っていたが、結果的には彼女にとっては災い転じて福となした形となったのだ。いずれどこかの令嬢と結婚して跡継ぎを残してもらえれば、これ以上好都合な話はない。 司の記憶が戻ることこそが最も厄介なことだと判断した楓は、司の記憶が戻るきっかけになるようなことは徹底的に避けた。日本に帰国させないようにすることはもちろん、間接的でもF3と接点をもつようなビジネス展開は一切しなかった。 そもそも手を回すまでもなく本人がそんなことには一切の関心を示さなかったのだが。 念には念を。 つくしを思い起こす可能性のあるものは全て排除していった。 そうして月日が流れ、司が副社長の座に就いたのは今から1年前のことだった。 多忙な日々に追われ、邸と会社の往復を繰り返す日々。 夜は相変わらず眠れずに酒と睡眠薬を大量に服用し続け、このままではいつ死んでもおかしくないと思える状態にまで追い詰められていた。 だが、司は決して誰の言葉も聞き入れようとはしなかった。 己の身が滅びるのをただ待ち続けている、そう思えてならなかった。 そんな中であの運命の日を迎えた。 会食中に何の前触れもなく倒れたあの日・・・ それはまるで限界まですり減った神経が彼自身を呼び起こしたかのようだった。 SOSを出したのは彼だったのか、それとも _____ 「ババァにとってはさぞ愉快だったことだろうよ」 図らずとも意志の伴わない男を手のひらの上で転がし続けていたのだから。 自分のあまりの不甲斐なさに自嘲めいた笑いが止まらない。 「・・・7年もの間死に続けていた俺が蘇った理由は何だ?」 「・・・・・・」 何も答えられない西田から己の右手へを視線を移す。 その右手はドクンドクンと脈打ちながら痛みを教えてくれている。 もう長いこと感じることのなかった感覚を。 それはつまり自分は確かに生きているのだと実感する何よりの証拠だった。 「死んだも同然だった俺がこうして正気を取り戻したのには何か理由があるはずなんだ。そうでなきゃあのままこの身ごと滅びてれば良かっただけだろ?」 「副社長・・・」 グッと右手に力を込めると確かな痛みを感じる。 「・・・・・・あいつが俺を呼んでるんだ」 「・・・え?」 「・・・牧野が俺を呼び続けてる。 ・・・俺が眠り続けていた間からずっと」 記憶を失っている間もずっと誰かが自分を呼んでいた。 誰の声かもわからない。 顔すら見えない。 それでも、いつも同じ音色で自分の名前を叫び続けていたのだけは覚えている。 「失った7年を取り戻すことは出来ない? だから何だっつーんだよ。だったら何故今更俺の記憶は蘇った? ・・・俺は誰がなんと言おうとあいつを見つけ出さなきゃなんねぇんだ」 「・・・・・・」 「笑いたきゃ笑えよ」 右手から視線を上げた男は記憶が戻る前と何一つ変わっていない。 頬はこけ、昔のような威圧感は消え去ってしまっている。 それなのに、確かな違いを感じる。 それはその目に確かな意志を感じるからだろうか。 もうずっと失われ続けていた生気がその瞳には宿っていた。 メラメラと、静かに燃える炎が。 たとえ冗談でも笑うことなど何故できようか。 そのあまりにも真剣な眼差しに西田は返す言葉一つ出てきやしなかった。 「誰も協力しねぇっつーんなら自分の手で探し出すまでだ。 ・・・俺はあいつが俺を呼び戻したんだと信じてるからな」 「司様・・・」 「自分勝手だと罵られようとどうしようと、記憶が蘇った以上俺は絶対にあいつを取り戻す。そうでなけりゃ俺が今生きてる意味なんかねぇんだからな」 自分に誓いを立てるようにはっきりとそう言い切ると、司は再び窓の外へと視線を送った。 その瞳は今はどこにいるかわからない、愛する女だけを確かに見据えていた ____
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愛が聞こえる 6
2015 / 03 / 08 ( Sun ) カツカツカツカツ・・・・・・
バンッ!!! 荒々しい足音と共にノックもなしに開いたドアに、下ろしていた視線を静かに上げた。 「一体何事ですか。不躾にも程があるのではなくて?」 「くっ、てめぇがそれを言うのかよ?」 「・・・一体どういう意味ですか」 「よくもまぁ長いこと人をおもちゃにしてくれたな」 「・・・・・・」 その一言で言わんとすることが全てわかってしまったが、女は微動だにしない。 いつだってこの女はそうだった。 いついかなる時だってその表情を崩すことなどありはしない。 「てめぇの予定ではこのまま俺の意志がないのをいいことに結婚でもさせるつもりだったんだろ? 残念だったな。その目論見は外れたぜ」 「・・・いつ記憶が戻られたのです?」 「んなこたぁどうだっていいだろがっ!!」 ガタガタッガシャーーーーーンッ!! 勢いよく蹴り上げた応接用の椅子がテーブルの上に置かれたグラスごとフロアに吹っ飛んだ。落ちたグラスが粉々に部屋中に砕け散る。 その有様を見ても目の前の女は動揺を見せることはない。 その冷静さがますます司の怒りの炎に油を注いでいく。 「俺は日本に帰る。一切の口出しは許さねぇぞ」 吐き捨てるようにそう告げると、その身を翻し今来た道を戻ろうとした。 「お待ちなさい。日本に帰ってどうされるのです?」 「愚問だな」 「まさか牧野つくしに会いに行くなどと言わないでしょうね?」 言葉を無視して前進していた足がその一言で止まった。 ゆっくりと振り返ると鉄の女の鋭い視線が自分を射貫いている。 だが睨み返している己の視線は比べものにならないほど冷たく凍り付いていることだろう。 「・・・それ以外に何があるってんだ?」 「今更彼女に会ってどうするのです。7年もの間あなたは彼女を放置していたのではなくて?」 「うるせぇっ!! てめぇに何がわかる!」 空気が揺れるほどに叫んだ声は悲壮感に満ちていた。 ___ そしてやり場のない己への怒りに。 「てめぇの息子が瀕死に陥って一命を取り戻したと思えば記憶喪失。おまけに忌々しいあいつの記憶だけがないときたもんだ。てめぇにとってはこの上なく面白い展開だっただろうよ」 「・・・・・・」 「こんな奴にいいように手のひらで転がされてたかと思うと反吐が出るぜ。・・・そしてそんな不甲斐ない自分自身にもな」 「あなたの仰るとおり。記憶を失っていたのは誰のせいでもない、あなた自身の問題です」 「黙れっ!!! てめぇに何がわかる! 記憶はなくともこの7年は地獄の底にいるような気分だった。死んだも同然だった。そんな人間をこれ幸いとばかりにてめぇのいいように動かすことしかできない人間にあれこれ言われる覚えはねぇっ!」 「勝手な行動は許しませんよ。あなたはこの財閥の後継者なのです」 「そんなことは知ったこっちゃねぇな。従順な跡取りが欲しいならてめぇで探せよ。俺はまっぴらごめんだ」 「牧野つくしがどうなってもよろしいので?」 「・・・どういう意味だ?」 「そのままの意味です。あなたは今彼女がどこで何をしているのかご存知なのですか? あなたの行動が彼女の望むことだとは限らないのですよ」 「うるせぇっ!!」 バリンッ!! 目の前に転がっているグラスの破片を思い切り踏みつぶすと木っ端微塵に砕け散った。 「それは脅しか? 思い通りにならなければまた力で踏みつぶすってのか? 残念だったな。今の俺はそう簡単にいかねぇぞ。幸か不幸かこの会社の運営に関してはどっぷり足を踏み入れてんだよ。てめぇがそのつもりならこっちにだって考えがある。てめぇは手駒を抱えてるつもりだろうがそれは同時に爆弾にもなり得るんだ。ただで転ぶと思うなよ」 「・・・・・・」 何も答えない楓を睨み付けると司は背を向けた。 「お待ちなさい。ビジネスの話をしましょう」 「・・・・・・あ?」 この期に及んでこの女は一体何を言い出すのか。 寝ても覚めてもビジネス、ビジネス、ビジネス、ビジネス。 生まれてこの方親と思ったこともないが、あらためてその機械人っぷりに笑えてきてしまう。 だからこそ自分のような息子ができるのだろうか。 こんな女と確かに血が繋がっているのかと思うと吐き気がする。 「どうしても日本に帰るというのなら次に手がける事業をあなたが担当しなさい」 「・・・何言ってんだ?」 「あなたもよくご存知でしょう? 近々日本でリゾート開発に着手するプロジェクトを。それをあなたがやってみせなさい。期限は最短で半年、最長で一年です。その間に無事にビジネスを成立させたならあなたの言い分を呑みましょう」 「嫌だと言ったら?」 「それはあなた自身がよくご存知ではなくて?」 「・・・・・・」 所詮は血の繋がった親子。 いざという時は血も涙もないのは同じだということか。 司は目の前でこの部屋に入ってきた時から姿勢一つ崩れていない女を真っ直ぐに見た。 幼少期からよく似ていると言われてきた母親。 母親らしいことをされた記憶など何一つないが、生きている限りこの女から完全に逃げ切ることなど不可能に近いのだろう。 だが今の自分なら少しは違う。 もしもの時はこの女に致命傷の一つでも与えることができる。 それならば _____ 「その言葉に二言はねぇな?」 「私はビジネスに関しては絶対に嘘を言うことはありません」 「ビジネスに関しては・・・ね。 クッ」 じゃあビジネス以外はどうなんだよと言いかけて思わず苦笑する。 どこかで対峙しなければならない運命だとするならば・・・・・・ 自嘲めいた笑いを零していた司の顔からスーーーッと表情が消えていく。 見る者を震え上がらせるような凍てついた顔に戻ると、まるで合わせ鏡を見ているように同じ表情で自分を見ている女を見据えた。 「やってやろうじゃねぇか。てめぇがやる以上の成果を上げてやるよ」 「ではビジネス成立ですね」 「ただし日本にいる間、俺の行動に口出しすることは許さねぇ。万が一にも失敗するようなことがあればてめぇの好きにしろよ。まぁ天地がひっくり返ってもあり得ねぇことだけどな」 「そんなに簡単なことではありませんよ」 「あぁ? 今の俺に不可能はねぇんだよ。あいつを取り戻すためなら何だってしてやるっつーんだよ」 「・・・・・・」 「言ったからには約束は守れよ。てめぇはその手中に爆弾を抱えてるって事実を忘れんじゃねーぞ」 そう言うと今度こそ司は部屋を後にした。 その足音に迷いは一切なかった。 「・・・現実を目の当たりにしても同じことが言えるのかしら」 見えなくなった背中にそんな言葉がかけられていたことなど誰も知らない。 *** 「あいつは一体どこに消えたんだ・・・?」 手にしていた報告書をバサッとデスクに放り投げたと同時に盛大な溜息が零れる。 何度読んでも、何度報告書を手にしても高校卒業後に富山に引っ越したところまでで記録が途絶えている。 だが肝心の富山でいくら調査をしてもその足取りを掴むことは全く出来なかった。 やっとのことで彼らを知るという人物を見つけ出すことはできたが、数年前に再び引っ越してその行き先に関しては一切情報が得られなかった。 普通ならばここまで情報が割れないことなど考えられない。 ましてや道明寺の力をもってしてもだなんてあり得ない。 やはり意図的に操作されていると考えるのが自然なことだろう。 本人が望む望まないに関わらず、つくし達にそれができる能力があるとは思えない。 ならば協力している誰かがいるということだ。 『 一切協力しないよ 』 あの言葉がまた頭に響き渡る。 思い出す度に右手に鈍い痛みを感じる。 類は全てを知っているのだろうか。 7年間のあいつの全てを・・・ 考えるだけで嫉妬の炎で焦げ付きそうだ。 だが嫉妬したところで現状がどうなるわけでもない。 今は何よりもつくしの行方を見つけ出すことが先決なのだから。 「牧野・・・」 いかなる理由があろうとも必ず見つけ出す。 そしてこの手に取り戻す。 そうでなければ己が蘇った理由がなくなってしまう。 「失礼します。副社長、お客様がいらっしゃってます」 「客・・・?」 突然入ってきた第2秘書に顔を上げるが来客の予定はなかったはずだ。 一体誰が? だが司のその疑問は即座に解決される。 何故なら秘書のすぐ後ろから現れた姿にはよく見覚えがあったから。 「よう、司。 久しぶりだな」 「・・・・・・あきら」 7年ぶりに見る親友の一人は幾分大人びて見えたが、誰よりも優しい笑顔は最後に見たときと何一つ変わってはいなかった。
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愛が聞こえる 7
2015 / 03 / 09 ( Mon ) 「あきら・・・」
突然の訪問者にやや呆気にとられている友人を前にあきらがプッと吹き出した。 「お前その顔は何だよ? っつーか久々に見たらひでぇことになってるな。まともな飯食ってんのか?」 「・・・放っとけよ」 「いやいやさすがにそのやつれっぷりは放っておけねぇだろ。お前がこの7年をどう過ごしてきたのか聞かなくてもよくわかるぞ」 「・・・・・・」 面白くなさそうに視線を逸らした男に苦笑いすると、あきらは自ら応接用のソファーに腰掛けた。 「お前から連絡もらってたのに時間が取れなくて悪かったな。この1ヶ月、仕事で中東の方に行ってたんだ。昨日帰国してな。他の奴らにはもう会ったのか?」 「・・・いや、ほとんど会ってねぇ」 「そうか・・・。まぁ総二郎も今は茶の文化を欧州にも広げるとかなんとかでヨーロッパをずっと回ってるからな。せいぜい会えたとしても類くらいのものか」 「・・・・・・」 類という言葉に司の目の色が鈍く光ったのをあきらは見逃さなかった。 だがそれには気づかない素振りを続ける。 「・・・記憶が戻ったんだってな」 少しの間を置いて直球で切り込んだ。 「あぁ。3週間ほど前にな。何の前触れもなく突然」 「・・・7年か・・・・・・長かったな」 「・・・・・・」 2人の間を何とも形容しがたい沈黙が包み込む。 「 長かった 」 という一言で片付けてしまうにはあまりにも気が遠くなりそうな現実に、さすがのあきらもそれ以上の言葉を選べずにいた。 「・・・お前は知ってんのか?」 「え?」 「あいつの・・・牧野の行方を知ってんのか?」 沈黙を破った親友の言葉にあきらの顔色が一瞬だけ変わる。 それはほんの一瞬の出来事だったが、その刹那、司は全てを悟ってしまった。 つくしをかくまっているのは類だけではないのだということを。 おそらく総二郎や滋、桜子までもが同じであるに違いない。 とっくに予想はついていたことだが、いざ現実として突きつけられてしまうと何故だか笑えてしまう。自業自得とはいえここまで落ちぶれてしまった自分に。 「・・・司、誤解するなよ。俺はお前の敵じゃない」 まるで司の思考が全て聞こえているかのようにあきらがフォローを入れるが、それすらもバカにされているようでますます笑える。 「味方でもねぇだろ?」 「司・・・」 嘲笑うかのように見せた表情はどこか悲しげであきらの良心がズキッと痛む。 「司・・・焦るなよ」 「何をだよ」 「お前にとっては」 「記憶が戻ってすぐにどうにかしたい気持ちはよくわかる。だが7年もの時間が流れていることを忘れるな、ってか? どいつもこいつも揃いも揃って壊れた機械のように同じことを言いやがって」 「司・・・」 「7年の時間が流れてる? それがなんだよ。んなこたぁよくわかってんだよ。記憶のない俺は生きていたが死んでいた。それでも自分の中で流れた時間への認識はある。あいつに何があってお前らが俺に隠し事をしてるのかは知らねえ。だからって俺の考えは変わらねーぞ。そもそもお前らが言うように焦らずに行動しなけりゃ事態は好転すんのか?」 「それは・・・」 心の奥を見透かしたような視線はギラギラと野心に燃えている。 この男がこういう目をしているときはたとえ自分たちだろうと止めることなどできやしない。 そのことは長年友人として傍にいた人間が誰よりもわかっていることだ。 「もしお前が今日俺に釘を刺しにきたのなら無駄足だったな。俺は誰が何と言おうと信念を曲げるつもりはさらさらねぇぞ。俺は俺のやり方で必ずあいつを取り戻してみせる」 はっきりとそう宣言した親友からは目には見えない力が溢れ出ていた。 昔の面影がないほどに痩せてやつれているというのに、そんなことすら忘れてしまうほどの鋭い眼光でこちらを射貫いている。 あきらはそんな男をしばし言葉もなく見つめていたが、やがて何がおかしいのかふっと笑った。 「相変わらずお前は気が早いな」 「・・・何がだよ」 「俺はまだ何も言ってねぇだろ?」 「あ? 何わけのわかんねぇこと言ってんだ。焦るなって言ってただろうが」 「あぁ、言ったな。だが逆を言えばまだそれしか言ってない」 「あぁ? わけわかんねぇこと言ってんじゃねーぞ!」 まるで獰猛な獣のようにあきらの言葉にいちいち食って掛かる司の様子にあきらも苦笑いするしかない。 「だから落ち着けって。お前が俺に面白くない感情を抱くならそれでもいい。だがとりあえずは最後まで話を聞いてからでもいいんじゃないのか?」 「・・・・・・」 フイッと視線を逸らした姿がまるで拗ねた子どものようで、これが女ならば母性本能を擽られるんだろうななんてことまで考えてしまう自分がおかしかった。 ふっと表情を緩めると、あきらは立ち上がってデスクの前まで移動した。 「俺はお前に助言に来たんだよ」 「助言・・・? つまりは忠告だろ」 「だからまずは聞け。正直に言うぞ。俺は牧野の今の居場所を知らない」 その言葉に司が顔を上げた。 その目は「 嘘をつくな 」と明白に語っている。 「嘘じゃねぇぞ。お前もわかってるだろうがあいつは高校を卒業して数年は富山にいたんだ。それ以降どこへ引っ越したのかは俺は本当に知らないんだ。会ってもいないし、風の便りをきく程度だ」 「じゃあ誰が知ってんだよ。何があった?」 「それは・・・・・・何があったかまでは今は言えない」 「じゃあ他の奴らと何も変わらねぇだろ。ここに来た意味なんかねぇ」 「そう結論づけるな。誰もお前を苦しめたくてこんなことを言ってるんじゃない。むしろこれはお前のためだ」 「意味がわかんねーな」 「いいか、司。おそらく牧野はお前に会うことを望んではいない」 「・・・・・・んだと?」 鋭い眼光にも臆することなくあきらは言葉を続けていく。 「牧野に何があったかはお前がいずれ自分で辿り着くだろうし、俺はむしろ時間がかかった方がいいと思ってる。何故ならあいつがお前に会うことを望んでないからだ。記憶が戻ったからってある日突然お前が現れたところであいつを追い詰めるだけだ」 「・・・・・・意味がわかんねぇよ」 「ましてやそんなにやつれた廃人みたいな姿で現れてみろ。お前の7年を思ってますますあいつは苦しむに決まってる」 「・・・・・・」 「時期が来れば俺はお前に俺が知ってる全てのことを話すつもりだ。だが今はまだその時じゃない。今お前がすべきことはその情けない姿をしっかり元に戻すことだ。牧野を見つけ出すのはそれからでも遅くはない。いや、むしろそうしなきゃダメだ」 「・・・・・・」 2人の男の視線がしばし絡まったまま時間が止まる。 やがて司はゆっくりと立ち上がると、やや見下ろす形であきらと対峙した。 「今のお前なら喧嘩で負ける気がしねぇよ」 「・・・」 あきらが目の前の司の胸元を軽く小突くと、いとも簡単にその体がふらついた。 「そんな情けない姿で牧野に会おうってのか? 仮に牧野が会いたがってたんだとしてもそんなことはやめておけよ」 「・・・・・・」 「揺るがない信念があるっていうなら100%の状態であいつに会いに行け。そうでなければお前は絶対に牧野を取り戻すことなんてできねぇぞ」 司は視線を逸らすことはないが何も答えない。 あきらはそんな司にフッと昔と変わらない笑顔を見せると、ただじっと立ち尽くしたままの男の肩をポンポンと叩いた。 「じゃあ俺も仕事があっから。今度ゆっくり飲もうぜ。ただし今より肉つけとけよ」 そう言うと最後に背中をポンと叩いて横を通り過ぎていった。 ドアの前までやってきたところで後ろを振り返ったが、親友は変わらず同じ姿勢で立ったまま。 「・・・司、これだけは忘れるな。 牧野はお前のことをずっと大切に思ってる。たとえ今お前に会うことを望んでいないのだとしてもそれは変わらない。・・・・・・そしてあいつは心の底ではお前を待ってる」 その言葉に司の右手がぴくっと動いた。 「あいつはお前を待ってるはずなんだ。・・・だからこそ焦るな、司。焦りは何も生まないぞ」 「・・・・・・」 「じゃあ急に悪かったな。 またな」 最後に自分に向けられた背中にそう語りかけると、あきらは部屋を後にした。 誰もいなくなった部屋で1人、変わらず司は佇んだまま。 しばらくしてゆっくりと視線を外へ向けると、眩しすぎるほどの青空が目の前に広がっていた。 この空の下のどこかにあいつが確かにいる。 「意味不明な説教なんかすんじゃねぇぞ」 そう呟いた言葉にはいつものような怒りは滲んではいなかった。 *** 「明日は開発予定地の下見となっております。朝5時にはお迎えに上がる予定ですがよろしいでしょうか?」 「あぁ」 「今日のお昼はどうされますか?もしよろしければ何か準備しますが・・・」 「いらねぇ」 「・・・かしこまりました。ではまた後ほど書類をお持ちします」 もはや定型文となってしまった答えを聞くと、西田は一礼して背中を向けた。 この7年、司が昼食をとることなど一度たりともなかった。 あるとすればやむを得ない会食の場だけ。 体を心配して助言でもしようものなら火に油を注ぐ結果になることがわかっているからこそ、誰も口出しすることなどしなかった。 できなかった。 「・・・・・・西田」 「はい」 あと少しでドアノブに手がかかるところで呼び止められた。 何か言い忘れでもあったかと振り返ると、何故か司は窓の方へと体を向けている。 「・・・? どうされましたか」 「・・・・・・・・・」 だが自分で呼び止めておきながら長い沈黙が続く。 よもや空耳だったのだろうかと西田が首を捻った時だった。 「簡単に食えるものを持ってこい」 「・・・・・・は」 「二度は言わねぇぞ。さっさと持ってこい」 アンドロイドだと言われて久しい西田をもってしても言われた言葉を理解するのにしばしの時間を要した。ハッとしたようにようやく我に返ると、急いで頭を下げた。 「かしこまりました。すぐにご用意致します」 最後まで司は振り返ることはなかった。 何が彼を変えたのかはわからない。 ・・・いや、彼を変えることができる理由など一つしかないのだろう。 何かが変わり始めている。 その辿り着く先が一体どんな結末を迎えるのかは誰にもわからない。 それでも、先を急ぐ西田の足取りはいつもでは考えられないほどに軽かった。
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愛が聞こえる 8
2015 / 03 / 11 ( Wed ) 『 道明寺っ!! 』
・・・・・・・・・牧野・・・? 『 ねぇ、道明寺っ! 聞こえないのっ?! 』 聞こえてるっ! お前こそ俺の声が聞こえないのかっ?! 『 ねぇっ、道明寺っ!! ねぇっ! こっちを向いてってば!! 』 こんなにお前を見てるじゃねぇか! おい、聞こえねぇのか? おい、牧野っ! 『 どうして・・・・・・? やっぱりどうやってももうあんたとは二度と向き合うことはできないの・・・? 』 おい、何言ってやがる! 俺はここにいるだろうが! 牧野っ!! 『 やっぱりあんたはもうあたしの知ってる道明寺じゃないんだね・・・ 』 待てっ、牧野! 俺はすぐ目の前にいる! 牧野っ!! 『 ・・・・・・いい加減諦めなさいって神様が言ってるんだね 』 おい待てっ! その先の言葉を言うんじゃねぇ。こっちを見ろっ!!! 『 ・・・悲しいけれど・・・・・・バイバイ、道明寺 』 おいっ、ふざけんなっ!! 俺はここにいるっつってんだろ!! あぁくそっ! なんで体が動かねぇんだ! 牧野っ、おいっ待てっ! 待ってくれっ! 俺はここにいる!! 牧野っ、牧野っ!! 牧野っ!!!!! 「まきのぉおおおおっっっっ!!!!!」 絶叫する声でハッと目が覚める。 一瞬だけ状況が掴めなかったが、すぐに自分の部屋にいるのだと脳が理解していく。 「はぁはぁはぁ・・・・・・夢か・・・」 ゆっくりと起こした体は全身汗まみれ。 汗を掻く季節でもないというのに、信じられない程に体が気持ち悪い。 「くそ・・・またシャワー浴びねぇと」 掴んだシャツはぐっしょりと濡れていた。 もう同じようなことをどれだけ繰り返してきただろうか。 目を閉じた俺をいつだって悪夢のような現実が襲いかかる。 あいつはどこにいるのか。 元気でいるのか。 今の俺には何一つわからない。 知る術すらない。 司の帰国から早くも一ヶ月が経過していた。 つくしに関する情報は相変わらず梨のつぶて。 道明寺の力をもってすればこの世にわからないことなどないと高を括っていた。 だがその目論見はいとも簡単に崩れ去ってしまった。 己がいかに無能でちっぽけな人間なのかをまざまざと思い知らされているようで、やり場のない焦りと苛立ちが募る日々。 『 焦るなよ。 あいつは心の底ではお前を待ってる。 だからこそ焦るな 』 「意味がわかんねぇよ。何を言ってんのか俺にはさっぱり・・・」 つくしが今どうしているのかすら何一つわからないというのに、皆口を揃えて焦るなと言う。 わからないからこそ知りたいと思うのは当然のことで。 この拷問のような日々が一体いつまで続くというのか。 見えない真っ暗なトンネルの中を延々と歩かされている気分だ。 ___ だがそれでも。 何故だか親友の言葉はそうしなければ永遠にあいつを失ってしまうかもしれない、この司にそう思わせるだけの何かがあった。 それは司の直感だった。 何故かなんてわかるはずもない。 ただ己の第六感がそう訴えた。 「失礼します」 声が聞こえてしばらくしてワゴンを押しながらタマが部屋に入って来る。 「おはようございます。よく眠れましたか?」 「・・・・・・最悪の夢見だったな」 「そうですか。生きていればそんな日だってありましょう。さぁ、朝食をお持ち致しましたのでどうぞ」 司が明らかに苛立っているのに気付いたタマはサラリと流して話題を変えていく。 こういうときの司の扱い方を一番わかっているのはこのタマだ。 「・・・シャワー浴びてくる」 「朝食は?」 「・・・・・・適当なもん置いとけよ。まずはシャワーだ」 「かしこまりました。では準備しておきます」 タマの言葉もそこそこに、司は背中を向けたままさっさとバスルームへと消えて行く。 何とも愛想の欠片もない行動だが、タマからしてみればきちんと会話が成立しているだけでも充分なレベルだった。本当に酷い状態の司であれば会話はおろか、タマと言えど部屋に近寄ることすらままならないのだから。 本当であればそうなっていてもおかしくない司を踏みとどまらせているもの。 その理由など一つしか考えられない。 「少しずつ食事量も増えているし、今の坊ちゃんにできることを坊ちゃんなりに精一杯頑張っているようだね。・・・・・・あの子に会うために」 カチャカチャと動かしていた手がふと止まる。 つくしは今どこで何をしているのか。 それはタマにとってもずっと心のど真ん中に居座り続けていたことだった。 司が未だ見つけられていないということは何かしらそれなりの事情があるということ。 そう考えるとますます気がかりで仕方がないが、だからといって何ができるわけでもない。 老婆にできることはただこうして信じ続けて支え続けることだけ。 「・・・いけないいけない。坊ちゃんが出てくる前に済ませておかないとね」 止まっていた手を再び忙しなく動かし出すと、タマはただ無心で仕事に没頭していった。 *** 「まだ首を縦に振らねぇのか?」 「はい。どうしても立ち退きはしたくないと」 「・・・チッ! そうとうな金額だって提示してんだろ? 一体何が気に入らねぇんだよ」 「先方はお金では動かないと主張しています。いくら金額を跳ね上げても意味がないかと」 「・・・・・・」 リムジンの中で手渡された書類を忌々しく眺める。 つくしの行方も気になるところだが、魔女と契約している以上仕事を放っぽりだすわけにもいかない。いくらつくしを取り戻したところで、魔女をそのままにしておけばつくしは再びこの手から離れて行ってしまうに違いないのだから。 実際、そう簡単ではないと釘を刺されていたビジネスに手こずっているのが現状だった。 長野のとある一帯にショッピングモール、病院、スポーツ施設、レジャー施設、ありとあらゆる複合型のリゾート開発をするという一大プロジェクトが進められていた。 8割方プロジェクトは順調に進行していたが、ここに来て予定地にあったとある施設が立ち退きに対して 「ノー」 を示した。ほぼ合意で話が進んでいた中での方針転換に、プロジェクト自体が中断を余儀なくされていた。 立ち退き料は常識で考えればどんな人間でもすぐに頷くに違いない額を提示しているにもかかわらず、頑として首を縦に振ろうとはしない。 通常ならば交渉は担当の者が中心になって進めていくものだったが、現状を少しでも早く打破するために副社長である司が直々に足を運ぶ事態となっていた。 だがそれをもってしても好転しない状況に司の苛立ちはピークにさしかかっていた。 仕事もプライベートも全てが八方塞がり。 焦る心とは裏腹に全てがうまくいかない。 その先にある目的がつくしでなければとっくに匙を投げている状況だった。 こうして直接足を運ぶのももう何度目になるだろうか。 あてもなくただぼんやりと外を眺めているだけの司をもってしても、気が付けばなんとなくどこにどんな景色が広がっているのか把握してしまっていた。 「問題はあの理事長だけなんだよな・・・」 「おそらく。あの場所に相当強いこだわりをもたれているようですから。お金でも動かないとなると一筋縄ではいかないかと」 思わず舌打ちが出る。 こんなクソ田舎に大型リゾートなんて何の価値があると最初は思っていた。 だがこうして通ううちにその理由が自ずと見えてくる。 都心部からの交通の便がいいこと、温泉や美しい自然に囲まれた環境には付加価値があるということ。大した娯楽のない地元民にとってはもちろんのこと、都会で疲れた人間が心と体を癒やすには好条件が揃っていた。 大型施設は地元の雇用も生む。 どちらにとっても願ったり叶ったりのウィンウィンのプロジェクトとなるはずだった。 だが・・・ 「クソったれが。こんなことで時間を無駄にしてる暇はねぇんだよ」 忌々しい気持ちで外に視線を送ると、駅周辺の様子が目に入ってきた。 決して都会ではないが、この辺りでは最も人が集まってくる場所だ。自然とモダンな建物の調和が目新しい駅は、この町の今後の可能性を感じさせる。 司は何をするでもなく、ただ目的地に着くまでの間ぼんやりとその流れる景色を見ていた。 だがやがて己の視界に入って来た光景にその視線が釘付けになる。 「・・・・・・止めろっ!!」 「・・・・・・はっ?!」 「いいから車を止めろぉっっっ!!!!」 「は、はいィっ!!」 あまりの形相に運転手の斉藤が慌てて急ブレーキを踏んだ。 キキキィーー!という音と共にリムジンが急停車する。 「副社長っ?! 一体どちらへっ?! この後すぐに打ち合わせが・・・・・・!」 引き止める西田の声など耳にも入れず、司は車から飛び降りると風の如く凄まじいスピードでどこかへと走って行ってしまった。 「はぁはぁはぁはぁっ」 あれは・・・・・・ さっき人混みの中でちらりと見えた黒髪・・・・・・ 「はぁっはぁっはぁっはぁっ・・・・・・!」 忘れもしない、あの横顔は・・・・・・ 「牧野っ、 牧野ぉーーーーーーーーーっっっっ!!!!!」 悲痛な声で叫んだ先に、司が望む女の姿はどこにも見えはしなかった。
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愛が聞こえる 9
2015 / 03 / 12 ( Thu ) 「・・・・・・う・・・、・・・副社長っ!! 」
突然呼ばれた名前にハッと意識が浮上する。 肩が揺れた拍子に机の上に置いてあったコーヒーの入ったカップが倒れた。 「あっ、書類が・・・!」 じわりじわりとデスクに広がっていく黒いシミを、それを見て慌てふためいて書類を掻き集めていく第2秘書を、スローモーションのようにただぼんやりと眺める。 あの広がっていくシミがまるで己の心と同化していくようで吸い込まれそうな錯覚を覚える。 「ほっ・・・書類は汚れなかったようです。よかったですね」 「・・・・・・」 手にした書類に目を通した秘書がほっと胸を撫で下ろす姿を見ても何も感じない。 正直、書類がどうなろうとどうだっていい。 だが己の立場ではそう言い切ることもできず。 いつまで経っても光明の見えない現状に苛立ちは募るばかりで、秘書の笑顔ですらイライラを誘発する。普通ならば怒鳴り散らして手当たり次第に暴れているところだろうが、それを辛うじて踏みとどまらせているのもまた、皮肉なことに現状見えない未来だった。 「あ、あの・・・コーヒーを作り直してきますね」 明らかに機嫌の悪い上司に掛ける言葉も見つからず、第2秘書はまるで逃げるように部屋を後にした。 「チッ、イライラする・・・・・・!」 寝ても覚めてもイライラは収まらない。 焦りはなくならない。 手が届きそうで届かないもどかしさに頭が爆発しそうだ。 あの日 _________ 「副社長っ! 一体どうされたんですか?! そろそろ行かなければ時間が・・・!」 呆然と立ち尽くした男の元にようやく辿り着いた西田は珍しく息が上がっていた。 「・・・・・・・・・・・・・・・あいつだった」 「え?」 「 ・・・・・・・・・・・・あいつが・・・・・・牧野がいた 」 思いも寄らぬ言葉に西田の目が見開かれる。 「・・・・・・まさか。副社長の見間違いでは・・・」 「俺があいつを見間違えるわけねぇだろうっ!!!!」 大声を張り上げる男に周囲にいた人間の視線が突き刺さる。 「・・・失礼致しました」 「・・・間違いない。あれは牧野だった。どんなに会っていなくとも見間違えるはずがない。俺の細胞を呼び起こせるのはこの世にあいつしかいないんだ。あれは牧野だった! あいつは・・・あいつはこの街のどこかにいる!!」 素早く移動する車窓から一瞬見えただけの光景だというのに、これほどまでに確信を持てるとは。西田にしてみれば俄に信じがたい話だったが、目の前の男が超人的な野生の勘を持つというのもまた揺るぎのない事実であった。 良きにせよ悪しきにせよ、その勘に多くの人間が手を焼いてきたのだから。 ____ 牧野つくしがこの地域にいる。 それはほぼ間違いのないことなのだろう。 「どちらに向かわれていたのですか?」 「わからねぇ・・・他の人間の陰で一瞬だけあいつの横顔が見えたんだ。俺が来るまでにそんなに時間がかかったわけでもない。何かに乗ってここを立ち去ったのかもしれない」 「本当に牧野様だったのですか?」 尚も疑いをかけるような言葉に司が人でも殺しそうな鋭い睨みをきかせる。 「てめぇ・・・俺の言うことが信じらんねぇってのか?」 「いいえ、信じております。だからこそ今一度確認しているのです」 「無駄なことを聞くんじゃねぇ! たとえ一瞬だろうとあれは紛れもなくあいつだった。牧野だった・・・!!」 「・・・・・・わかりました。どうされますか?」 「すぐにここに人を寄越せ。ここで見たからといってすぐ近くにいる保証はどこにもない。だが少なくともあいつがいる地域は限定されてきた。徹底的に洗い出せ!」 「・・・かしこまりました」 「ただし道明寺の名前を出すな」 「は・・・」 すぐに車に戻ろうと身を翻した西田の動きがピタリと止まった。 「あいつにどういう事情があるかはわからない。だがこれだけ情報が出てこないのには理由があるはずだ。道明寺という名前を避けている可能性だって考えられる。調べるときには俺が関わっているということを絶対に悟られるな」 「・・・わかりました。すぐに手配させます。ひとまず副社長はこの後の予定へお急ぎください。時間に遅れることはさらに事態を悪化させる原因になり得ます。相手に付けいる隙を与えないようにされた方がよろしいかと」 「・・・・・・」 本当ならば自分の足で街中を探して回りたい。 だが、いつだってこの身は己の自由にはならない。 もどかしい。 じれったい。 ・・・・・・だが。 ようやく掴みかけた希望の欠片を決して逃したりはしない。 どんな手段を使ってでもこの手に掴んでみせる。 司は指の先まで脈打つ鼓動を全身に感じながら、己の胸をグッと握りしめた。 あれから2週間。 己の胸の高鳴りに反して何一つ新たな情報は得られていない。 自分の存在を消して探していること、 「牧野つくし」 を探していることを表沙汰にしないこと、それらの条件から捜索が難航することははじめから予想はついていた。 だが日本のどこにいるか全くわからなかった状況からすれば天と地ほどの差があったはずだ。 それにも関わらず未だ消息が掴めない。 一体どこでどうしているというのか。 あの日見た女は間違いなくつくしだった。 この7年、記憶を失い闇の底に沈んでいた間も意識の奥底でひたすらに求め続けていた女。 一目でも、たとえ一瞬でも見間違うことなどあるはずがない。 この自分に、ただ思い出すだけでこんなにも鼓動を激しくさせることができる人間など、世界中どこを探そうとも一人しかいないのだから。 「司君?」 「あ・・・失礼致しました。少し考え事をしていまして」 ほんの少しでも時間があればいつの間にか思考の淵に沈んでいる。 今も会食中だというのに、目の前の親父の存在など完全に頭から消えてしまっていた。 何の中身もない与太話を延々と聞かされ続け、いい加減愛想笑いも限界だ。 ババァとのビジネスという制約がなければとっくにこの場から立ち去っているに違いない。 こんな無駄な時間を過ごすのならば、今すぐに長野へ飛んでこの足でつくしを探し回りたい。 「君はNYで会った時と随分印象が変わったなぁ」 「NY・・・ですか?」 この男に一体いつ会ったことがあるというのか。 己の記憶には微かにも残されてはいない。 「はははっ、覚えていないかね? 以前御社のパーティに招かれたことがあってね。君とも挨拶をしたことがあるんだよ」 「・・・それは大変失礼致しました」 「がはははっ! いやいや結構結構、あの頃の君はどこか魂が抜けていたような目をしていたからなぁ。覚えていないと言われると妙に納得するよ」 そう言って巨体を揺らしながら笑うのが癪に障るが、あながちこの男が言っていることも間違っていないだけにただ笑って流す他ない。 あの頃、自分は生きながらにして死んでいた。 日々をどう過ごしていたのかもろくに覚えてはいない。 一体どのようにして大学に通い、仕事もそれなりにこなせていたというのだろうか。 思い出そうとしても断片的な記憶しか蘇らない。 この男を含め、腐るほどに顔を合わせてきたであろう人間の顔も思い出せない。 記憶が蘇った一方で、死んでいたも同然の7年間の記憶はほとんど失われてしまった。 ・・・いや、端から覚えてなどいなかったのだ。 「何かあったのかね?」 「・・・?」 「君を変える何かがあったのかね?」 「・・・・・・」 見ればさっきまで笑っていた男がいつの間にか真剣な顔でこちらを見ていた。 珍しく口ごもる司にフッと目が細まる。 「・・・そうか。君を正気に戻らせるようなきっかけが何かあったんだね。数年前に見た君と今の君ではまるで別人のようだからな」 「・・・そんなに違いますか」 自覚はある。 だが他人からどう見られてるかなど気に掛けたこともない。 「あぁ、別人だ。今の君からはギラギラとした野心のようなものを感じる。それが吉と出るか凶と出るかは君次第だが、少なくとも私は今の君の方が人間くさくて嫌いじゃない」 「・・・・・・」 「生きてる・・・か」 あれから数時間、ようやく解放された体をリムジンに預ける。 確かにあの親父の指摘通り、生きながらに死んでいたあの頃に比べれば今は指先一本ずつにまで血が流れているのを実感する。 だがこのままあいつが見つからなければこの体は一体どうなっていくというのか。 またあの薄暗い闇の底へ堕ちていくというのか。 会いたい・・・ あれこれごちゃごちゃ考えたところで、結局辿り着くのはこのシンプルな答えだけ。 願うのはただ一つ。 あいつの笑顔に会いたい。 ただそれだけだった。 「牧野・・・・・・」 ピリリリリリッ ピリリリリリッ 一日に何度口にしているのかわからないその名前を口ずさみながら目を閉じた瞬間、車内に電子音が鳴り響いた。 ドクン・・・ それは直感だった。 この電話は何かとても重要なことを自分に伝えようとしている。 案の定、手にした画面には午後から別件で行動を分けていた西田の名前が表示されている。 今現在深夜0時。 こんな時間に連絡をしてくるなど、余程の事情がない限り考えられないこと。 ___ つまりはその 「余程」 があったということだ。 「何があった」 急いで携帯を耳に当てると開口一番に尋ねた。 『 牧野つくしの居場所がわかったとの連絡が入りました 』 予想していた通りの言葉に、全ての時間が止まった。
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