さよならの向こう側 side司 1
2016 / 06 / 05 ( Sun ) ぐったりと泥のように眠る女の柔肌を指でなぞってその感触を確かめる。
これは夢ではない。 正真正銘今目の前にある現実なのだと。 「ん・・・」 眠っていてもくすぐったさを感じるのか、手から逃げるように身を捩った女の中心部からとろりと征服の証が流れ落ちていった。その何とも甘美な光景に、えも言われぬ感情が頭から指先まで全身を駆け巡っていく。 「 3度目はねぇからな。 ・・・もう絶対に逃がさねぇ 」 舐めるように耳元で囁くと、細い体を引き寄せ再びこの腕の中に閉じ込める。 失っていた半身がようやく自分の元へと帰ってきたのだと何度も何度もその甘い香りを吸い込みながら、心地よい気だるさに身を任せるように瞳を閉じた。 本当のことを言えば、それは想定内のことだった。 『 ごめん、道明寺。もう別れて 』 仕事に忙殺されながらやっとのこと連絡をすると、開口一番あいつはそう言った。 何の前触れもなく告げられたその言葉に愕然とする。 「・・・は? お前何言ってんだ?」 『 何って・・・別れてって言ったの 』 「はぁ? いきなりんなこと言われてはいそうですかなんて言う奴がいるかよ。つーか何かあったところで俺がお前を手放すつもりなんかあるわけねーだろうが!」 『 道明寺がどう思おうが関係ない。あたしはもう決めたんだから 』 「お前・・・ざけんなっ!!」 鼓膜が破れんばかりの声で怒鳴り散らす。 おそらく電話越しにあいつの体が激しく揺れたに違いない。 だがこれが怒らずにいられるかってんだ。 『 ふざけてなんかいない。・・・もう会わない。会いたくもない。一生恨んでもらっても構わない。・・・さよなら 』 「おい、牧野? 牧野っ、ざけんなっ! 俺はぜってぇにんなこと・・・!」 ブツッ! ツーッツーッツーッ・・・ 「・・・・・・!」 最後まで言い切ることすらできないまま一方的に電話は切られた。 すぐさまリダイヤルするが、それを見越していたかのように既に繋がらなくなっていた。 「くそっ! ざけんじゃねぇぞっ!!」 ガタガタッ、ガシャーーーーーーンッ!!! 近くにあったキャビネットを蹴り上げると凄まじい勢いで後ろに吹っ飛んでいく。 だがその様子を見届けることなくこの体はある場所を目指していた。 あいつに最後にまともな連絡ができたのはもう10日以上前のことだっただろうか。 それほどに俺の今の日常は目まぐるしく過ぎていた。 その時も僅かな時間を作り出してほとんど向こうの夜中に近い時間に電話をした俺に、あいつは恨み言1つ言わず、それどころか俺の体を心配する始末。 何もかも投げ捨てて日本に帰って抱きしめたくなる衝動を抑えるのに必死だった。 結局何でもないたわいもない話をしただけなのに、疲れ切っていた俺の体からは驚くほどの力が溢れてきた。 NYに来てもうすぐ1年。こういうことは初めてじゃなかったし、あいつもそれに文句を言うでもなくむしろ俺に張り合うかのように勉強にバイトにと精を出しているようだった。 働く必要なんかねぇっつってんのに。 それでも、あいつがそうしたくなる気持ちだってわかる。 俺は待たせている立場であいつは待つ立場。 同じ時間が流れているのだとしても、どっちがしんどいかと言えば確実に後者だろう。 だったら自分の出来ることに時間を忘れるくらい必死になっている方がいい。余計なことを少しも考えている余裕すらないほどに。 どうやったって我慢させるしかない。 これは俺自身が決めたことなんだから。 ならば今さら罪悪感を感じてたって何の意味もねぇ。 俺がやるべきことは、4年という約束をきちっと果たすことだけ。 ____ そしてあいつを迎えに行く。 ただそれだけだった。 それなのに ___ バンッ!!! 「・・・・・・何事です? ノックもなしに入って来るなど、不躾にもほどがあるのではなくて?」 「そっくりそのままてめぇに返してやるよ」 扉が破れんばかりの轟音をたてても、目の前の女は体1つ揺らさずにこちらを見上げた。 それが余計に怒りに油を注ぐ。 「牧野に何しやがった?」 「・・・いきなり入ってきたと思えば何を言っているのかしら」 「とぼけて余計な時間をかけんじゃねーぞ。俺が気付かねぇとでも思ってんのか? 牧野に何をした。早く言えっ!!!」 ビリッと空気が揺れるほどの怒号を撒き散らすと、やれやれと呆れたように息を吐き出しながら楓が眼鏡をデスクに置いた。 「私は常にこの財閥の未来を考えている。そのために必要なことをしているだけに過ぎません」 「それで? 牧野に身を引けっつったわけか?」 「・・・・・・」 肯定も否定もしない。それが全てを物語っている。 やはり己の直感は間違ってはいなかった。 牧野にあんなことを言わせたのは他でもないこの女なのだと。 「てめぇはよっぽど俺が幸せになるのが気にくわねーみてぇだな」 「・・・あなたは一個人である前にこの道明寺財閥の人間なのです。時に個人の感情より優先すべきことがある。それを覚悟の上でここへ来たのではなくて?」 「あぁそうだな。俺は俺なりに覚悟をもってここに来た。でなきゃあいつに待ってろなんて言えねーからな。でも勘違いすんなよ。だからって俺は俺自身の幸せを犠牲にする気はサラサラねぇんだよ!」 「感情だけで突っ走れるほど甘い世界ではありません」 「知るかよ。てめぇができなかったからって俺まで同じだと思うんじゃねーぞ。俺は俺のやり方で未来を掴んでやるぜ。この会社も、・・・そして牧野もな」 「・・・フッ。今にそれがただの戯れ言に過ぎないと思い知るときが来るでしょう」 ガンッ!! カラカラカラ・・・カシャンッ! 長い足で思いっきり目の前のデスクを叩きつけると、重厚感のあるマホガニーはビクともせずにのせられていた万年筆だけが転がっていった。 「さっきも言ったよな? そっくりそのままてめぇに返してやるって。俺はてめぇの操り人形になるつもりはサラサラねぇし、何があろうとあいつを手放す気もねぇ。どんな妨害をしたところで無駄だってことを思い知らせてやるよ」 「その強気もいつまで続くことかしら。状況はあなたが思っているよりも厳しくてよ。大きな犠牲を避けるために小さな犠牲には目を瞑る。上に立つ者として必要なことです」 「小さな犠牲ね・・・フン、だからてめぇはわかっちゃいねーんだよ。いいか、俺にとって最大の犠牲は他でもねぇ、あいつを失うことだ。俺を人間らしくさせられるのも狂わせられるのもこの世にただ1人。あいつは全ての原動力なんだよ。お前は俺がどんな覚悟をもってここに来たのかを少しもわかっちゃいねぇ。ま、わかる気もねーんだろうけどな」 「・・・・・・」 心底軽蔑の眼差しを向けて身を翻す。 「いいか。これ以上牧野に手出しして見ろ。その時にはてめぇの骸がハドソン川に浮かぶと思っておけよ」 バンッ!! 相変わらず能面のような面構えの女の顔をそれ以上見ることなく部屋を後にすると、司は再び一点を目指して猛然と歩き出した。 *** 「牧野の動向から目を離すな」 「・・・と言いますと?」 さすがはあの女に長年仕えただけはある。 ノックもなしに入って来たかと思えば何の前触れもなく怒鳴りつけるようにそう言った上司を前に、西田は狼狽えることもなく冷静に対応した。 「お前は何か知ってんじゃねーのかよ?」 「・・・いえ、何も存じ上げません」 「後で嘘だとわかればブッ殺されるぞ? 誓えるか?」 「疑われるのは構いませんが私は何も存じ上げておりません。・・・ただどういったことがあったのかの予想はなんとなくつきますが」 「・・・・・・」 じっと西田の様子を探ってもそこに偽りは感じられない。 予想がつくというのもその通りなのだろう。 何故ならこの男もつくしに対して同じような仕打ちをしたことがある張本人なのだから。 「ふん、とにかくあいつのこれからの動向を細かく追え。確実に俺から離れていこうとするはずだからな。それから俺が探りを入れてるってのを悟られないように立ち回れ」 「・・・司様はどうされるおつもりで?」 「本当なら全てを捨ててでもあいつの元に行きてぇに決まってる。けどそれじゃああいつは絶対に俺を受け入れねぇ。俺は何があってもあいつを手放す気はねぇからな。だったらあいつが俺の元に戻ってくるための道筋をつくるだけだ」 「・・・かしこまりました。ではすぐに日本に手配をいたします。確認しますが牧野様の動向を監視しつつも接触はしない、そういうことですね?」 「あぁ。・・・ 『今はまだ』 、な」 即座に返ってきた答えに頷くと、西田はすぐにデスクに置かれた電話に手を伸ばした。 その様子を横目に見ながら司は自分の執務室へと戻っていく。 部屋に入るなりすぐさま胸ポケットからスマホを取り出してリダイヤルする。 ・・・が。 『 お客様のおかけになった・・・ 』 当たり前だと言わんばかりに無機質な機械音が流れると、盛大な舌打ちと共に足元に叩きつけた。 「 くっそ! 今さら誰が逃がしてやるかよ。 覚悟してやがれ・・・! 」 ギラギラと燃えるような瞳でそう口にすると、司はグッと血が滲んでくるほどに強く拳を握りしめて再びデスクへと戻っていった。
いよいよ司編のスタートです。やけに物わかりのいい坊ちゃんですが・・・?まだまだゴールは先だぞ!頑張れ~!(笑) スポンサーサイト
|
さよならの向こう側 side司 2
2016 / 06 / 07 ( Tue ) 「牧野か? こんな時間にわりーな。プレゼントが届いてたからどうしても今日中に礼を言いたくてな」
『 あ~・・・なんか、ごめんね? 』 「あ? ごめんって、なにがだよ」 『 その、ほら、あんたにはどんなものをあげていいかわかんなくてさ。多分欲しいものは何でも手に入るんだろうし、でもこれといって物欲もないみたいだし・・・。だから今あんたが一番頑張ってることに使えるものにしたんだけど・・・どうかな、使えそう? すごい安物だから道明寺が着てるスーツには合わないかもしれな・・・ 』 「お前は大概わかっちゃねーな」 『 えっ? 』 「俺が物欲がねーだと? アホか。俺はこの世界の誰よりも貪欲に決まってんだろ。欲しいものを手に入れるためならどんな手段も選ばない。お前が一番わかってんじゃねーのか? 牧野」 『 そ、それは・・・ 』 ククッと笑い声が響く。 「俺が唯一欲しいと望むのは牧野つくし、お前だろ。そのお前が俺のためだけに選んだものを俺が気に入らねぇとでも思ってんのか?」 『 ・・・・・・ 』 「俺にとって重要なのは “何か” じゃねぇ、 “誰か” なんだよ」 『 道明寺・・・ありがと 』 「クッ、だからもらったのは俺なんだから礼を言うのは俺だろうが。お前もわかんねー奴だな」 『 あ、そっか 』 「バーーカ。・・・でもサンキューな。これから毎日使うぜ」 『 いやっ?! 使ってもらえるのはすごーく嬉しいよ? でもさすがに毎日は・・・ 』 「俺がいいっつってんだからいいんだよ。それともあれか、同じもんを使うのに抵抗があるっつーならこれからは節目節目に送れよ」 『 え? 』 「そうすりゃ4年の間にいくつか溜まんだろ」 『 道明寺・・・。 うん、そうだね 』 「4年後にはこの最初のやつを付けて帰っからな」 『 あはは、うん、わかった。ちゃんと大事に使ってるか見てあげる 』 「上から目線かよ」 『 そうだよ、悪い? 』 「くっ、俺にんなこと言って許されんのはお前だけだよ」 『 あははっ! ・・・道明寺、お誕生日おめでとう 』 カツン・・・ デスクに手を置いた拍子に音をたてた小さな物体を指でなぞる。 いつもは特注のそれがあるはずの場所には、決して高級とは言えない、送った本人も言っていた高質なスーツには幾分不相応なカフスボタンがあった。 だがそもそもこれまでカフスなんてものを一度でも見たことがあっただろうか。 意識したこともなければ、どんなものを使っていたのかも全く記憶にない。 そこに神経を集中させるのは、間違いなくこれが生まれて初めてのことだろう。 「牧野・・・」 あの会話からもうすぐ2ヶ月。 まさかこんな未来が待っているだなんて俺もあいつも予想だにしていなかった。 あの日から毎日のようにリダイヤルを繰り返す携帯は当然繋がらない。自分が与えたもの故にアナウンスが 『この携帯電話は現在使用されておりません』 に変わることもない。 だがあいつはきっと既にあの携帯を手放している。そう思えた。 それでもかけ続けるのは、自分への決意表明のためでもあった。 ___ 絶対にあいつを逃がしはしないと。 何の憂いもなかったあの日からしばらくして、世界経済における三本の矢とも例えられていた道明寺ホールディングスにとっての好敵手が突然の倒産を発表した。ここ数年業績が悪化しているというのは当然周知の事実だったし、衰退させないためにもあの手この手で首の皮を繋いでいたのも知っている。 だが年明けからの世界的な株価の低下に、軒並み業績が悪化していく企業が続出。 その筆頭だったその会社は瞬く間に転落の一途を辿ってしまった。 いくら近年業績が悪化していたとはいえ、それでも三本の矢と称されるほどのトップ企業だ。その影響たるや海を越え国境を越え、世界の末端までも広がっていくこことなる。それは当然日本にとっても他人事ではなく、煽りをうける形で次々と破綻していく企業が増え続けていった。 僅か2ヶ月足らずの間に世界経済で起こった大きな混乱は、ここ道明寺ホールディングスにおいても決して看過できないものとなっていた。先行き不安から株価は大きく下落し、瞬く間に赤字へと転落していく。それに引き摺られるように下請けが倒産し、ますます本丸の雲行きも怪しくなる。 その負の連鎖はとどまることを知らなかった。 連日のように人々を不安に陥れるニュースが駆け巡る。 相次ぐ倒産、リストラ、それらに絶望した人々による急激な自殺の増加。 そして残る2本の矢までもが共倒れとなってしまった場合、予想もつかないほどの世界大恐慌に陥ってしまうだろうとどのマスコミも声を震わせていた。 そんな中での突然の別れ話は、ある意味では予想通りでもあった。 もちろんそんなことは認めねぇし、あんな選択をしたあいつを許せねぇとも思う。 だがそれこそが牧野つくしだということも嫌と言うほどわかっていた。 強攻策を選んだところであいつが真の意味で幸せになることは不可能だ。 あいつが笑ってなけりゃあ俺も幸せになれねぇ。 どこまでいってもクソ真面目で不器用で、肝心なところで逃げる卑怯な女。 だが、俺はそれも全てひっくるめてあの女に惚れ込んでる。だったらぜってーに逃げられないように包囲網を仕掛けるしかねぇ。 たとえそれが何年かかろうとも。 「司様、牧野様が大学への進学を辞退したとの連絡が来ました」 執務室に入ってきた西田の報告は完全に想定通りのものだった。 経済状況が厳しいとあいつは大学進学を諦めていたが、そこを俺が半ば強制的に英徳へ進学させる手配を整えていた。当然の如くあいつはやめるように言い張ったが、本音では進学したがってるのは誰の目にも明らかだった。 『 いずれうちに入る覚悟があるならできるだけ多くの知識と教養を身につけろ。それともあれか、自信がねぇから逃げんのか? 』 だから半分挑発するようにそう言ってやった。 『 や、やってやるわよ! 逃げるわけないでしょっ?! 』 単純明快な牧野は案の定それに乗っかってきた。 知識? 教養? バカバカしい。んなもん誰がいるかっつーんだよ。 あいつに求めることはありのままの牧野つくしでいることだけ。進学しようが就職しようが本音ではどっちだって構わねぇ。 全てはただ俺の監視下に置いておきたいだけという独占欲に過ぎない。 「あいつが辞退しねぇわけがねーからな。・・・で? それであいつはどこに消えたんだよ」 まだ何も言われちゃいないが、辞退と同時に東京から出て行ったであろうことは確信していた。 「どうやら島根に行かれたようです」 「島根?」 「はい。なんでも母親の祖母が昔住んでいらしゃったとかで」 「・・・んっとに、あいつの行動は呆れるくらいにワンパターンだよな」 いざというときに田舎に逃げるのはなんなんだ? そんな場所こそ外部の人間が浮きがちで、かえってこっちから見つけやすいだなんてあいつは夢にも思っちゃいねぇんだろう。 「真っ先に仕事を探すはずだ。徹底的にマークしておけよ」 「かしこまりました。では司様、そろそろお時間です」 「・・・・・・」 「これは仕事ですから。どうかそれはそれ、これはこれで・・・」 「うるせーな。てめぇに言われなくてもわかってんだよ」 「・・・これは失礼致しました。では参りましょう」 軽く頭を下げた西田の背中を見送りながら、煩わしさだけが滲んだ溜め息をついた。 「クソかったりぃ・・・」 この後に待っているのはとある企業の重役との会食だ。 だがそれはあくまでも建前に過ぎず、その場が本来何のために設定されたものであるかは考えるまでもなかった。 「あのババァの息の根を止めてやりてぇぜ・・・」 俺が全く譲る気はないように、あの女は女で微塵も引くつもりはないらしい。 それもまた想定通りではあったが、不快であることに寸分の違いもない。 苛立ちでデスクを叩きつけようと握り拳をつくったその瞬間、あのカフスがキラリと光に反射した。 『 ダメ。あんたがやるべきことはそうじゃないでしょう? 』 そんな幻聴が聞こえたような気がしたっつったらお前は確実に笑うよな? 「くっ・・・受けて立ってやろうじゃねーかよ」 誰に聞かせるでもなくそう口にすると、勢いよく立ち上がって執務室を後にした。
|
さよならの向こう側 side司 3
2016 / 06 / 08 ( Wed ) 約束の場所に行って最初に漏れたのは失笑。
表情を変えずに口の中だけで笑うことにはもうすっかり慣れたものだ。 だがこれが笑わずにいられるものか。 業務提携に向けた前向きな顔合わせとして設けられたはずの席に、何故か振り袖姿の若い女がいるのだから。 先に座っていた向こうのオヤジも、そしてババァも。 どちらも何食わぬ顔で機嫌よさげに談笑している。 そっちがその気ならこっちはいかにして効果的にこの場をブチ壊してやろうか。 部屋に入った瞬間から考えるのはそのことだけとなった。 「お待たせして申し訳ありません」 「いやいや、君も随分と忙しいと聞いてるよ。まぁ座ってくれたまえ」 「恐れ入ります」 ビジネストークもこの1年ですっかり板についた。 たとえ頭の中で真逆のことを考えていても、それをおくびにも出さずにスマートに会話をこなす。この世界での処世術の1つだ。 だがこの後に自分がとるべき行動は決まっている。あとはそのタイミングを見極めるだけ。 余計なことで手を煩わせないためにも、今はできるだけこちら側に有利に事を運びたい。 向かいに座る女の視線を感じながら、そして隣でそんな俺の腹の内を知ってか知らずか気色のわりぃ笑顔を浮かべて話すババァの声を聞き流しながら考える。 SHINOZAKIは日本生まれだが、造船を中心とした製造業で世界のトップに躍り出た企業だ。 だが近年続く金属類の高騰、そして質よりも安さを求める最近の傾向から、ニーズは東南アジアの同業社に風向きが変わりつつあった。 だがそれはどの世界にも共通して言えること。デフレが進めば高いものは売れない。どんなに品質に優れていても、それが売れなければ企業は成り立たない。SHINOZAKIの技術は世界一だということは疑いようのない事実だったが、時代の波には逆らえないのもまた現実だった。 不況となれば合併や業務提携の話が出てくるのはビジネスの常。 だが母体が大きければ大きいほど、それにはリスクも伴う。船頭が複数いてはかえって舵取りが難しくなるからだ。 とはいえ今はそのリスクを恐れていては八方塞がりになってしまうほど状況は厳しい。我が道明寺ホールディングスとて、自社の企業努力だけではこの底に沈んだ経済界を引き上げるのは不可能に近い。 そこで白羽の矢が立ったのがこのSHINOZAKIだ。 彼らは独自の技術に誇りを持っている。その腕1つで世界に上り詰めただけの揺らぎないプライドは、三流国への技術の流出だけは許すことはできなかった。 ならばと提携先に選んだのが同じ日本生まれの大企業である道明寺ホールディングスというわけだ。互いに異業種ではあるが、だからこそ互いにないものをハード面、ソフト面いずれの観点からも補うことが出来る。全く新しい試みになるが、この状況を打開するための1つの足がかりになるかもしれないというのは確かなことだった。 だからあくまでビジネスとしての交渉には前向きだ。 ___ 当然条件を満たせば、の話だが。 「 お父様 」 延々と続くオヤジとババァの会話を遮った声。 気が付けばここに入って来てから既に20分以上が経過していた。よくもまぁ人がいることもお構いなしにこれだけ喋り続けられるもんだと呆れかえる。 「どうした、舞」 「お父様がお話を続けているせいで司さんがずっとお待ちになられているわ。お忙しい中こうして来てくださってるんだから」 「あぁ、これは失礼しました。どうも昔から話し出すと止まらないタチでしてねぇ」 「・・・いえ。お気になさらずに」 ガハハっと恰幅のいい体を豪快に揺らす男を腹の中で嘲笑う。 何故ならこの後の茶番劇が目に浮かぶからだ。 「そうだ。我々はもう少し積もる話もあるし、お前達はお前達でゆっくり話でもしたらどうだ」 「えっ?」 ほらみろ。 オヤジもオヤジだが、寝耳に水とばかりに驚きを見せる女もまた白々しい。そもそもこんな場所に振り袖で来ている時点で目的を知らないなんてことがあり得るはずがねぇ。 所詮この親にしてこの娘ありってところか。 「楓さん、どうですかね?」 「もちろん構いませんわ。若い者は若い者同士、話も合うでしょうから」 「ということで司君、少し舞とゆっくり話でもしてくれたまえ。これから私達は長い付き合いになるんだから、世代の近い者同士親睦を深めようじゃないか。なんならそのまま2人で戻って来なくても構わないがね」 「お父様・・・!」 さも今思いついたかのように提案する親父も、恥ずかしそうに顔を染める女の顔も醜く歪んで見える。いっそのことこの時点でブチ壊すか? だがそれではビジネスは成立しない。 あいつを1日でも早く迎えに行くためには、利用できるものを利用しない手はない。 ならば一番間違いのないタイミングは ____ 「わかりました。ではお言葉に甘えて。舞さん・・・と言いましたか。少し外でお話でも?」 「えっ? あ・・・わかり、ました」 「わっははは! 若いということはいいことですなぁ!」 期待以上に話がスムーズに進んでいることにご満悦なのか、オヤジの顔は緩みっぱなしだ。 すぐにでも胸倉を掴んでぶっ飛ばしてやりたくなるのを深く息を吐き出してグッと堪える。 目的を果たすためには耐えることも求められる。 「え、と・・・それじゃあ・・・ちょっと行って参ります」 「そのまま戻って来なくとも構わんからな!」 「お父様! そのような失礼なことは言わないでください!」 「わはは! 司君と会う機会はそうそうないんだ。時間は有効に使えよ」 「もう・・・! 父が大変失礼致しました」 「・・・いえ。では参りましょうか」 作り笑顔を貼り付けてさっさと部屋を後にする。 振り袖は動きづらいのか、女が出てくるまでには時間がかかったが、あの忌々しいババァ共が見えなくなったのを確認すると同時にそんなことも一切関係なくズカズカと足を進めていく。 そうして進むことしばらく、ホテルに造られた大きな庭園へと辿りついた。 先に足を踏み出すと、既に空にはとっぷりと月が浮かんでいた。 この空の先であいつは今何を思っているのか ____ きっと俺を裏切ったことへの罪悪感で日々押し潰されそうになっているんだろう。 ・・・本当にどうしようもねぇバカな女。 「 司さん・・・! 」 ようやく追いついた女の息は少し上がっていた。 「最初に言っておく。俺には決めた女がいるしお前とどうこうなるつもりは微塵もねぇ」 「えっ?!」 やっとのこと追いついたかと思えば振り向きざま開口一番そう切り捨てた俺に、女は口を開いたまま唖然と固まっている。そりゃそうだろう。意気揚々と胸を膨らませて来てみれば、その淡い期待ごと一瞬にしてぶっ壊されたのだから。 「司さん・・・?」 「だが今回の業務提携に関しては前向きに検討すべき事案だと思っている。お前のこととは別でビジネスはビジネスで話を進めていくつもりだが、この茶番を成立させなけりゃ話が進まないってんなら全てをなしにする。俺にはその覚悟はできてる」 「・・・!」 「お前がどういうつもりでここに来たかなんて関係ねぇ。俺には自分の選んだただ1人の女しか必要ねぇんだからな。他の女が入り込む余地は1ミリだってねぇんだよ」 女が喋る暇も与えないほどにはっきりと切り捨てる。 良識のある人間ならビジネスとは切り離して考えるのが当然だが、初対面にもかかわらず振り袖を着てくるような女には期待もできないだろう。最悪提携の話自体が流れるだろうが、だからといって俺は身売りする気はサラサラねぇ。 そうでなきゃ生き残れねぇようならどっちにしても潰れるのは時間の問題だ。 未だ目を見開いたまま棒立ちする女に背を向けると、俺は遠い空の下で後悔の念に苛まれているであろうバカな女を想った。 「・・・・・・・・・ふふっ」 ・・・? 空耳だろうか。女が笑ったような気がして顔だけ振り向く。 と、やはり女は笑っていた。 あまりにもはっきり言われて笑うしかなくなったか? 俺のそんな訝しむような視線に気付くと、女はコホンと軽く咳払いをしてこちらに向き直った。 「気が合いますね」 「・・・あ?」 「私達、もの凄く気が合って相性バツグンだと思います」 「・・・・・・」 やっぱこの女真性のバカだったか。 ババァがあの手この手で阻止を謀ってめんどくせーことになるに違いはねぇが、これで今回の話はナシで決まりだ。 俺がそんなことを考えた時だった。 「 私もあなたと一緒になる気などサラサラないんです 」 うって変わって目を丸くした俺を前に、女はニッコリとご満悦そうに笑って見せた。
確実に本編より長くなってしまいそうです~(´д`) |
さよならの向こう側 side司 4
2016 / 06 / 09 ( Thu ) 今度は唖然とするのは俺の番だった。
「でも正直に言えばほんの少しだけ迷いがあったのも事実です。私もSHINOZAKIの人間として、自分がどうすべきなのか考えなかったわけじゃないですから」 「・・・」 「でもそのほんの僅かな迷いを吹き飛ばしてくれたのは他でもない司さん、あなたです」 「・・・どういうことだよ」 未だ警戒心を解かない俺を前に、女はどこか苦笑い気味だ。 「ごめんなさい。こんな格好で来ればその気満々だって思われるのも当然ですよね。でもこれも私なりのカモフラージュの1つだったんです」 「カモフラージュ?」 「はい。ご覧の通り、父は提携はもちろん、私達がいずれ結婚することにかなり乗り気ですから。でも私にそのつもりは全くなかった。けれど、あなたを含め、そちら側が提携するにあたってそれが条件だと言われれば・・・。ですがそうならないために自分にできる最大限の努力はするつもりでした。とりあえず表面上は父を安心させるために指示された通り振り袖で来たんです。後はチャンスを窺ってあなたときちんとお話ができたらと考えていました」 「・・・・・・」 「そんな時にあなたの方から願ってもないことを言われたものですから。ある意味で相思相愛だなと思ったんです」 思い出したのか、フフッとおかしそうに笑う。 この女の顔をきちんと見るのは今が初めてだが、こうして見ると幾分年上だろうか。 「司さんには将来を誓ったお相手がいらっしゃるんですね?」 「あぁ」 「そうですか・・・。私も同じです。一生を添い遂げるならこの人しかいない。そう思える男性がいます」 「・・・」 「でも私は私である前にSHINOZAKIの人間でもある。あなたならその葛藤をわかってくださいますよね?」 「社会人なのか?」 「えぇ。うちに入社しています。もちろんコネでも何でもなく、本人の努力以外のなにものでもありません」 「お前のオヤジは?」 「学生時代からお付き合いをしていることは知っていますが・・・遊びなら許すが本気はダメだと。然るべきときに然るべき男と結婚しろ、幼い頃からそう言われて育ちました。然るべきって一体何なんでしょうね? そこに私の意思などどこにもないというのに・・・」 「・・・・・・」 悔しそうに唇を噛みしめる姿に自分が重なって見える。 どこの世界にも同じように歯がゆい思いをしている人間はいるのだと。 男女逆転しているこの女の方がその苦労はより大きいのかもしれない。 「私の気持ちは一生変わらない自信がある。けれど自分の幸せを求めて本当にいいんだろうか、今私がすべきことはSHINOZAKIの人間として多くの社員の生活を守ることが第一なんじゃないかと。その迷いが消せないまま今日この場に来たんです」 「その男は?」 「・・・私が信じた道を行けと。全てを捨てて僕のところに来るのなら喜んでその手を取るし、ほんの少しでも迷いがあるのならSHINOZAKIのために生きて欲しいと。でなければ私は一生後悔するだろうって。その代わり僕もSHINOZAKIの一社員として骨を埋める覚悟だと。・・・たとえ一緒になれなくとも」 「・・・・・・」 滲んできた涙をキュッと指で拭うと、女は微笑みながらこっちを見上げた。 「司さんの大切な方は? どのような女性なんですか?」 「あいつは・・・」 途端に色んな表情のあいつが脳裏に浮かび上がってくる。 怒った顔、笑った顔、泣いた顔。 ・・・必死に痛みを堪えて精一杯強がる顔。 「・・・・・・バカな女」 「えっ?」 「信じられねーくらいにビンボーで、色気もクソもねぇし。鈍感で、不器用で、ありえねーくらいのお人好し。とにもかくにもバカな女だな」 「・・・・・・」 よもやそんな答えが返ってくるとは思いもしなかったのだろう。 女はポカンと呆気にとられている。 「・・・けど俺にとっちゃ世界一いい女だ」 「えっ?」 「こいつのためなら何でもできるし何でもしてやりてぇ。たとえ腐った世界だろうがそこに骨を埋めて一生あいつを守ってやる、この俺にそう思わせるくらいのな」 「司さん・・・」 ほんと、我ながら特徴だけ並べたらあんな女のどこがいいんだと思えて笑えてくる。 それでも、あいつの価値は陳腐な言葉なんかじゃ語れない。 理屈じゃない。 俺の魂がそう訴えているのだから。 「・・・本当に愛されてるんですね、その方は」 「ほんとにな。この俺様にここまで愛される有難みをもっと噛みしめろって感じだけどな。あの女、いつだって肝心なところで逃げやがる」 「えっ・・・?」 その言葉の意味をどう捉えるべきか考えあぐねているのだろう。 「自分の痛みには強くても人の痛みには耐えられない。そういう女なんだよ、あいつは。だから今回の事を受けて自ら身を引いたつもりでいやがる」 「そんな・・・」 「ま、当然俺はんなこと認めちゃいねーけどな。どっちにしろあいつを納得させるにはこっちを立て直さない限りは無理な話だ。あいつには別れたと見せかけて俺の監視下で泳がせてるってわけだ」 「・・・!」 目を丸くして唖然とすると、ついには堪えきれなくなったのか女がプッと吹き出した。 「あははははっ! 司さん、策士ですね」 「こうでもしなきゃあの女、フラフラフラフラどこに行きやがるかわかったもんじゃねーからな。ったくほんと、俺にここまでさせられる女なんざ地球の裏側探したっていねーよ」 「ふふふっ」 マジでめんどくせー女。 それでも仕方ねぇ。 どんなにめんどくさかろうと、俺が欲しいと思えるのはあいつしかいねーんだから。 「・・・あなたでよかった」 「あ?」 「この窮地に、人生の岐路に立たされていた時に出会えたのが・・・あなたでよかった」 「・・・・・・」 真面目な顔に戻ると、女はあらためて姿勢を正してこちらに向き直ってゆっくりと右手を差し出した。そして意味がわからず眉間に皺を寄せる俺に向かってニコッと微笑むと、その笑顔とは対照的に力強い口調で話し始めた。 「私達は言わば同志です」 「同志?」 「そうです。同じ志を持つ者。そんな私達がこの苦しい状況下で巡り会えた。もしここで会っていたのがあなたでなければ・・・私の未来はまた違った道へと繋がっていたかもしれません。ですが私達はこうして出会ったのです」 「・・・」 「私はこの巡り合わせに感謝します。これから志を貫くべく、最強の同志として共に頑張っていきましょう」 「・・・・・・」 いつもの俺なら鼻で笑ってあしらっていただろう。 だがこの女の言っていることは間違っちゃいない。 状況に応じてこの場をぶっ壊すつもりでいた俺にとって、今ここにいるのが全てを理解し、しかも自分と同じ明確なゴールを目指している女であることは、全く意味のないことだとは思えなかった。 1日でも、1分でも1秒でも早くあいつの元へ。 そう思う俺にとって、これ以上利害が一致する相手などいないだろう。 「巡り合わせ・・・か」 「はい。きっとこれもまた運命ですよ」 「くっ。随分と安っぽいセリフだな。・・・だが嫌いじゃねーぜ」 ニッと不敵に笑って見せると、負けじと女も笑い返した。 どうやらまだまだ俺にはツキがあるらしい。 ____ 牧野、せいぜい落ち込みながら待ってやがれよ あいつに届くように強くそう心の中で叫ぶと、目の前に出されたままの手をグッと掴んだ。
|
さよならの向こう側 side司 5
2016 / 07 / 22 ( Fri ) 「7年ぶり…か」
噛みしめるようにその言葉を口にすると、司は思いっきり息を吸い込んだ。 ____ 7年ぶりとなる日本の空気を。 「これからどうなさるおつもりで?」 「決まってんだろ。牧野の親のところへ行け」 「本社へは?」 「んなもん後回しだ。まずやるべきことは決まってる」 「…かしこまりました。では車をそちらに回します」 運転手へと指示を出す西田を横目に見ながら、司は窓の外の景色へと視線を送る。 この空の下、手を伸ばせば届く距離につくしがいると思うだけで全てを放り出して今すぐに会いに行きたい衝動に駆られる。 だが今はまだその時ではない。 今はまだ。 この6年もの間、血の滲むような努力を続けてきたのは確実にあいつの手を掴むため。 ここまで来て最後の最後に焦って全てを無駄にするだなんて冗談じゃねぇ。 カサッ… 胸ポケットに忍ばせてあった一枚の紙切れを取り出す。 左右とも半分だけが既に記入済みで、もう半分は真っさらな状態。 司はその紙を無言でじっと見つめた。 ______ 『宣言通り最盛期まで…いや、それ以上に業績を戻してやったぜ。いくらてめぇでもこれ以上文句のつけようはねぇだろ?』 「……」 『ま、てめぇがすんなり認めるとは思ってもねーけどな。とりあえず有無を言わさずここに名前を書いてもらうぜ』 バンッ!!とマホガニーに叩きつけられたのは真新しい婚姻届。 それはつくしと一旦の別離を決意し、そして未来を掴む為に舞と同盟を組んだ直後に日本から取り寄せたものだ。この6年もの間、常に司の手元に置かれていた。 楓は無言でそれを一瞥すると、再び視線を目の前の息子へと戻した。 『言っただろ? 俺にとって最大の損失はあいつを失うことだって。この手に取り戻すという明確な目的があったからこそこの会社は復活を遂げた。もし万が一にもてめぇがそこに名前を書くことを拒否するってんなら、あっという間にまた転落の一途を辿っていくことになるぜ?』 「…今のあなたにはそんなことはできないでしょうね」 『いいや? てめぇは相変わらずわかっちゃいねーな。今の俺だからこそ何の躊躇いもなくやれんだよ。この7年、そしてあいつが俺との別れを決めてからの6年、俺はその言葉通り死ぬ気でやってきた。誰一人に付けいる隙を与えないほどにな。私利私欲を捨てて、本来の自分を消して、ただひたすらに、がむしゃらに。そこまでやって、そして結果を残した。それでも俺のたった一つの願いすら叶わないってんならもう俺にこの世への未練はねぇよ。今度こそ全てを捨ててやる。いとも簡単にな」 「……」 『どうする? 今度こそ全てはお前次第だぜ?』 ニヤリと不敵に微笑んだ息子としばし視線をぶつからせると、楓はスッと先に目を逸らして盛大に溜め息をついた。 「はぁ…。あなたのその執念は一体誰に似たのかしら」 『さぁな。客観的に見ればてめーらどっちもじゃねぇか? 目的のためなら実の子だろうが利用する。一切の慈悲すらねぇ』 「……」 『で? んなくだらねーことなんざどうでもいいんだよ。書くのか書かねぇのかはっきりしろ』 もう一度強く用紙を叩きつけると、長い沈黙の後、楓が無言で引き出しから万年筆を取り出した。司はじっと射るような眼差しでそれを見つめている。 「…条件があります」 『聞かねーな。既にお前は俺に条件を出せるような立場じゃねぇんだよ』 「我が社が全てあなた一人の力で成り立っているとでも? だとすればまだまだ認識の甘い青二才と言わざるを得ませんね」 『んだと…?』 「覚えておきなさい。ピラミッドというものは下があって初めて成り立つ。土台をしっかり安定させるために時に無慈悲になることも躊躇わない。そしてその安定した土台を未来まで守っていく、それが我々に与えられた責務です」 『はっ、お前にだけは言われたくねーって感じだけどな』 「あなたの言う通り、私もやろうと思えばいつでもこの会社を傾けることはできました」 その言葉に司がハッとする。 「無慈悲だと万人に恨まれようとも、私は自分のすべきことを全うしてきただけのこと。あなたが自分の歩んできた道が正しいと声高々に主張するのならば、今だけでなくこの先ずっと我が社を守っていくことを誓いなさい。その覚悟がなければここに名前を書くことはできません」 『……』 「どうしました? ここに来て急に怖じ気づきましたか?」 この女って奴はつくづくどこまでいっても… その血が紛れもなく自分にも流れているのだと思うと笑えてくる。 『誰がだよ? 言っただろ? 俺のただ一つの願いはあいつと共に生きること。そのために必要なことならどんなことだってやってやるよ。どんなに不本意なことだろうが、あいつ以上に俺に必要なものなんて存在しねぇんだからな』 「……そうですか。その言葉に二言なきよう」 静かにそう言うと、楓はスラスラと目の前の用紙に自分の名前を記入し始めた。性格をそのまま表したような達筆な字を連ねていくと、最後に胸ポケットから印鑑を取り出して真っ赤な印をそこに刻み込んだ。 「どうぞ」 『……』 真っさらだった紙に新たに加わった名前。 そこにあるのはおそらくこれから先もそう多く交わることはないであろう、だが紛うことなき真の親子の名前。司はこの7年を振り返るようにじっとそれを見つめると、それを離すまいと弾かれたようにその用紙を取り上げた。 『俺は来週には帰国する。そして予定通り次の公の場であいつを取り戻し、そしてそのままこれを提出する。後継者として避けて通れない雑務には目を瞑るが、それ以外のことに関しては一切の口出しを認めねぇ。それだけは忘れんなよ』 「あなたこそ自分が言ったことを忘れないように」 『ふん、だから誰相手に言ってんだ? 牧野を取り戻した後の俺に怖いものなんてねーんだよ』 「その気の緩みから足元を掬われないようにして欲しいものだわ」 『言ってろ。これ以上てめぇと話してたところで時間の無駄だ。俺は一秒でも早く日本に帰りたくて仕方ねーんだよ。じゃあこれは受け取ってくぜ。天地がひっくり返ろうともなかったことにはできねーからな』 「……」 勝ち誇ったように婚姻届を揺らしながら執務室を出て行く息子の後ろ姿に、楓はやれやれと深く息を吐き出した。 「……本当に、あのねじ曲がったまま真っ直ぐに伸びた神経の図太さは誰に似たのやら」 そんなことを呟きながら。 _______ 「……くっ」 「…? どうなさいましたか?」 「いや。ちょっと思い出してただけだ」 意味のわからない答えに首を捻りつつも、西田はすぐに手元の資料へと視線を戻す。 「……ほんっと、最後の最後まで素直に認めねぇ厄介なババァだぜ」 窓の外を眺めながらそう呟いた口元は微かに笑っていた。 *** ピンポーン… ピンポーン… ピンポンピンポンピンポンピンポーーーーーン ……ダダダダダ……ガチャッ!! 「ちょっと! 近所迷惑でしょう! いい加減にしてください、うちは新聞をとるお金なんかどこにもないってあれだけ____」 憤慨しながら顔を出した男の言葉がそこで途切れた。 白いランニングにステテコという漫画の世界からそのまま出てきたような姿で。 「…………え…?」 鳩が豆鉄砲を食ったような顔が酷く様になっている。 「ご無沙汰しています」 「……………」 聞こえているのかいないのか。呆けたまま鳩からは何の反応も返ってこない。 「ちょっとパパー? 取り合わないですぐに追い返してって言ったで____」 怪訝そうにしながら玄関先までやってきた女性もやはりそこで言葉を失った。 …そして鳩が2羽に増えた。 「ご無沙汰しています。お元気でしたか?」 鳩には言葉が通じないのか、やはり何のリアクションもない。 苦笑いしつつどうしたものかと軽く咳払いしたその時、 「おい、オヤジ、おふくろ、何やってんだよ? さっさと断ってドア閉め____」 二度あることは三度ある。 鳩2人の遺伝子を確実に引き継いだ顔をした男がその場にやってくると、既に二度見た光景と全く同じ構図でそれ以上の言葉を失ってしまった。 とうとう鳩が3羽になった。 さすがに笑うのを我慢するのも限界だ。 だがまずはその前に。 「皆さん、ご無沙汰しています。私のことを覚えてらっしゃいますか?」 「 ______ 」 「ど……道明寺さんっ?!」 若い青年の口からようやく出てきたその言葉に、司はニッコリと笑顔を作って見せた。
|